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「どこへいっても『掴み所のない奴』なんて言われた僕だけど、ここにきてやっと居場所を見つけたって感じ」
by me109fun
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カテゴリ:ゴロドニコフ氏の回想( 15 )

エアラコブラとYak 6

A.S.
 我が国の戦闘機とコブラと直接比較させた方はいらっしゃいましたか?

N.G.
 いたどころか、私自身がそれを行いました。
 Yak-1との空戦訓練に私がコブラを操縦しました。
 3回対戦しましたが3回とも私がYakの後ろをとりました。

A.S. 
 それじゃYakは劣っていたわけですね。

N.G.
 腕の問題でしょう。私には経験があったし、機を熟知していましたから。
 向こうは若手でした。機を取り替えても結果は一緒だったでしょう。

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by me109fun | 2005-06-05 21:32 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 5

A.S.
 さて、いったいコブラは、Bf109GやFW190に対抗できる戦闘機だったのでしょうか?

N.G.
 はい。 コブラ、特にQ-5型と並ぶ戦闘機は存在しません。たとえどんなドイツ戦闘機であれ。

A.S.
 これは奇妙ですね。 あるアメリカパイロットによればコブラは、「低空をゆっくり大きく旋回することしかできない」戦闘機だそうです。

 加えて資料によると、コブラの最高速度はBf109Fを下回ります。 それ以後のドイツ戦闘機に対しては、言わずもがなの話です。

 連合軍はこの戦闘機を、メッサーとフォッケには到底勝ち目のないと評価しています。
イギリス、アメリカともに、コブラを戦闘機としては落第扱いしました。

N.G.
 さあ、私にもわかりませんね。 私たちにとっては間違いなく優秀な戦闘機でした。
なによりも、それがポクリシュキンの戦闘機であったことが、多くを物語っています

(アレクサンダー・ポクリシュキン-ソビエト第2位の撃墜王で、1942年から終戦までコブラで戦った)。

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by me109fun | 2005-05-29 23:34 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 余談2

インタビューの中で何度も取り沙汰されたアリソン・エンジンの信頼性の低さを、小生は意外に感じる。このエンジンは、例えば109のDB605のような、燃料噴射器だの無段階変速過給器だのを備えた、技術偏重による弊害さえ指摘される、凝りにこった高出力エンジンと比較して、出力よりも丈夫さが取り柄の、シンプルにして耐久性抜群というイメージを抱いていたからだ。

ましてやロシアの航空エンジンは、ヨーロッパの国らしく液冷エンジンが多数派であり、整備の方も一般的に手慣れていそうな先入観もあったから。ゴロドニコフさんが認めた当時のロシアの技術的基礎の立ち後れ、というところだろうか。

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by me109fun | 2005-05-21 20:26 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 4

A.S.
 搭載されたプロペラにも、いくつか種類かあったそうですが。
N.G.
 そうですね。3枚のものから後には4枚のものになりました。
 でも、さほど違いは感じませんでしたね。

 それらは可変式で、パイロットがレバーとロッドで
 操作できました。後期型コブラではピッチ制御は
 スロットルに統合されました。
 一部のQ-10、全てのQ-25とQ-30がそうです。

 非統合式の方が我々の好みでしたね。Q-5からQ-10のような。

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by me109fun | 2005-05-21 19:40 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 3

A.S.
 それではP-39のエンジンについてです。それはもろいものでしたか?
 信頼性が低い、運転時間が保証されたはずの120時間も保たない、
 コンロッドが「抜ける」、などと酷評されているエンジンですが。
N.G.
 アリソン・エンジンですね。 強力なエンジンでしたが、
 コブラに装備されていたものは如何せん信頼性が低かったです。
 特に初期のものは。英国向けだったエアラコブラI、Q-1、Q-2ですね。

 それらのエンジンは確かにもろかったです。3,4回空戦しただけで
 修理が必要になりました。

 これら初期のアリソンは、規定耐久時間の半分さえ性能を
 維持できませんでした。
 せいぜい50時間が限界、通常はそれ以下です。
 10回から15回の出撃が限度でした。
 すぐに壊れ、軸受が溶けました。

 私も酷い目にあったことがありますよ。
 飛行中にエンジンが停止したことがあります。

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by me109fun | 2005-05-15 17:50 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 2

A.S.
 ところで37ミリ砲ですが、果たしてこれは必要なものだったのでしょうか?
 戦闘機に装備するものとしては、それは大きすぎませんか?
 搭載弾数もごく少なくい。発射速度なども遅かったのでしょう?
N.G.
 こいつの37ミリについては、それが劣っていたか優れていたか、
 などと単純に評価するべきではありませんね。

 ひとつ、こう考えてみて下さい。M-6機関砲には長所と短所が同時にあった。
 良い面をよりよく使えば、それは欠点を補います。

 まずは、その短所から列挙しましょうか。

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by me109fun | 2005-05-07 19:19 | ゴロドニコフ氏の回想

エアラコブラとYak 1

 
エアラコブラとYak 1_a0027931_1840155.jpg

A.S.
 コブラに乗り換えになったのはいつ頃ですか?
 どのタイプで訓練されましたか?複座型はありましたか?
N.G.
 また複座型なんておっしゃる(笑)。複座型なんてありませんでしたよ。
 それらは大きな木箱に詰めてられて到着しました。

 コブラへ転換したのは1942年の11月でした。最初のコブラはモスクワから、
 箱詰めのままで届きました。自分たちの手でそれを組み立てて、
 訓練開始です。

 もともとイギリスが発注したP-39Qの、おそらく1型か2型でした(明らかに
 エアラコブラⅠ)北アフリカでの運用を考慮した黄色い迷彩塗装でした。

 転換訓練は厳しかったです。講師とともに、様々な大量の文書もやってきました。
 翻訳は5、6日ですばやく処理されました。

 その後、コブラは空輸してもらったり、私たち自身でクラスノヤルスクまで
 受け取りに行ったりしました。タイプQ-5,10,25,30と35です。
 これらは最初からソビエト向けとして生産されました。
 これらQモデルだけで、終戦まで戦いました。
 [ただしQ型の最終ブロックは-30BEなはず]

A.S.
 コブラはお気に入りでしたか?
N.G.
 気に入っていました。特にQ-5ですね。
 これは私が使った3種類の戦闘機のうちで最良でした。
 コブラの中で最も軽量なのです。

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by me109fun | 2005-05-07 18:27 | ゴロドニコフ氏の回想

トマホークとキティーホーク 1

A.S.
 訓練でお使いになったのP-40はどのタイプでしたか?
 また戦闘を行ったのは?
N.G.
 戦闘にはキティーホーク、トマホークともに使用しました。
 トマホークの方が先に届きました。

 通常の手順で飛行隊ごと一気に転換しました。講習を受け、
 操縦席に慣れ、タキシングを試し、そして初飛行です。
 「生き残りたいなら、まず学べ」。3,4日で終えました。
 私たちは初学者じゃないわけですから。

 私たちの航空隊では、複数の種類の飛行機が共存することが
 よくありました。
 ある飛行隊がP-40、別の飛行隊はハリケーンというふうに。
 最初に10機のP-40が到着し、11機目は特別にサフォーノフ
 (航空隊司令)に与えられました。
 彼の戦死後(1942年5月30日)、航空隊の装備機全てが
 P-40へ切り替えられました。

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by me109fun | 2005-04-23 18:45 | ゴロドニコフ氏の回想

I-16とハリケーン 6

A.S.
 イギリス製火器はいつ頃まで使用していました?
N.G.
 3ヶ月くらいでしょうか。その後我が国の火器に取り替えられました。

A.S.
 武装の変換は問題を起こしませんでしたか?
N.G.
 なんの問題もありません。砲身は胴体から2メ-トル半も離れていましたから
 両翼の火点が離れすぎていることは問題でしたが。

A.S.
 英国製の機関砲を搭載したハリケーンにお乗りになったことは?
N.G.
 ありませんね。彼らがハリケーンに機関砲を載せるようになったのは
 我々の後でしょう。我々に習ったのかもしれませんね。
 [これは言い過ぎ、4門のヒスパノ20㎜機関砲を搭載した
 ハリケーンMk.IICは、独ソ開戦以前からマルタで活動を始めている。]

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by me109fun | 2005-04-16 22:25 | ゴロドニコフ氏の回想

I-16とハリケーン 5

A.S 飛行隊司令官はアレクサンダー・アンドレイヴィッチ・コヴァレンコでした
 (すでに主のみもとへ召されました)。
 連邦英雄の初期の受賞者ですが、瞑想的で物静かな、典型的ウクライナ人でした。
 私が編隊僚機を務めていました。


 42年のことだったと思います。ムルマンスクが空襲をかけられ、
 我々は6機で迎撃すべく離陸しました。無線交信が入りました
 (当時地上迎撃システムは出来上がっていました)。

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by me109fun | 2005-04-10 15:01 | ゴロドニコフ氏の回想